長年にわたって勤めてきた北海少年院から、札幌太田病院に天職を移すことになってまず思い立ったことは、さらなる集中内観の体得ということにあった。それは少年達と苦楽を共にして来たころに集中内観を体験して以降、あまりにも年数がたちすぎていたので、ここで斬新な集中内観を経験することによって、得るであろうところの今後のより有効な内観療法の探求にあった。所は栃木県下の瞑想の森・内観研修所である。
その初日、所長の柳田鶴声先生のオリエンテーションの中で“内観中に眠くなったら眠ってもいいです”というお話もあったが、隣の方へ面接に来られた柳田先生のお姿を見て驚いた。
それは法座の前で丹精込めて黙想し、その後に最敬礼・合掌・最敬礼、そして屏風を開けられると合掌・最敬礼されてから身調べの内容を拝聴され、それが終わると、また同じ動作の繰り返しであるからである。
もちろん私のところにも、こうして面接指導に来られるのであるが、この敬けんなお姿をひと目かいま見たとき、睡魔など一度に吹き飛び、内観の奥義に吸い込まれていくのである。そしてテーマに沿って1日目、2日目と自分を調べ続け、やがて自分の本当の姿を知るにつれて、心は次第に清らかに浄化され、どんな汚れにも染まることのない“迷いの心”から“悟りの心”に近づいている自分に気づかせていただくことができたのである。
爾前の経々では善根をもって生死を繰り返すことによって、やがて仏になれるとあるも、末法の法華経では「我れ等衆生の胸中の肉団におはしますなり」とあるように、仏性は私達の心の中にあるのである。それは現在の凡夫の姿のままでも、悟ることによって仏になれるのであり、柳田先生はまさしく仏と相対しているご心境なのであった。
さて、集中内観で最も大事なことは、テーマに取り組む気構えであり、それは課題に全知全能を傾注させて集中することにあった。そしてお世話になったことを調べるにつれて「いかに、していただいたことばかりが多いことか」に気づいたとき、感謝の気持ちが次第に大きくなり「して返したことが、いかに少ないことか」を知るほどに、情けない自分の姿が浮かび、「これではいけない、今度こそは」と奉仕の気持ちが強まるのであった。さらに、お掛けして来たその迷惑や心配の大きさを知ったとき、謝罪の気持ちと反省が強まっている自分に気づくことができた。
最終日、再度母に対する自分を調べたところ、改めて母の慈悲深さが思い知らされ、母から受けた愛の大きさに気づいたとき、涙がとめどなくあふれるのであった。柳田先生はこれを“愛情の落ち穂拾い”と称されて名声を博していることが後で分かった次第である。
さて、一週間の集中内観が終わってみると、相手を責める前にまず自分を振り返る力がつき、相手に要求する前に自分でするべきことを考え、更には自分の立場に固執することなく、相手の立場に立って考えることができる自分になっていたのである。
内観とは私達の心に、このように妙なる作用をもたらしてくれるのであり、不可思議な力をもっていることが、今回の集中内観で得た最大の収穫であった。 |